出雲宇宙と松江への帰還
出雲縁結び空港への着陸態勢に入ると、宍道湖の上をすれすれに滑走する機上の自分が水鳥になったかのような錯覚をしそうになる。窓外には平坦な沃野と隆起した山地が誰かの手でフチどられたかのようにくっきりとした地形が広がり、これは何か大規模な作為のなせる風景なのではないかという疑いさえ持ってしまう。それほどに端正な、箱庭のような景色が目に飛び込んで来るのだ。
数十年来、後述するある理由で、そこを訪れることを切望してきた松江でたまさかに講演の仕事が入ったため島根県を訪れたのだが、前日入りした私は先ずは出雲市に向かったのだった。
出雲のスナック街は、出雲市駅から歩いて一分とかからない場所にある。その名を「代官町」という。
日曜の午前中に駅前の投宿先に荷物を預けた私は午前十一時のスナック街を歩き回った。代官町の特徴は、その店舗数もさることながら、小綺麗であるところだ。色々な地方のスナック街を歩きまわると、昔はかなり栄えていただろうが今は・・・という寂れすさんだ光景を目にすることも多いが、この街は廃墟化したものはほとんど無く、途中からゆるやかに蛇行する道なりに、みっしりとスナックが鈴なりに連なっている。
昼間歩きまわると、じっくりと看板や店構えを眺めることが出来るが、何故かこの街には入ってみたいと思わせる店が多い。名前や看板、店構えに特徴のあるものが多いのだ。
いつもの通り、一時間ちょっとじっくりとスナックたちを眺めまわし、スナック街への入り口近くにある実に味わいのある喫茶店で遅めのモーニングを食べ、午後は出雲大社詣でに費やした。以前、伊勢神宮にも行ったことがあったのだが、出雲大社は全く違った趣きで、個人的にはこちらのほうが神秘を感じた。
特に大社の近くの古代出雲歴史博物館は一見の価値がある。古代に存在したといわれる天を突くジグラッドのように巨大な階段状の社の復元模型や、出土した大量の銅鐸や銅剣の展示には度肝を抜かれるだろう。
最初に飛行機から見た宍道湖まわりの異常に端正な風景とも思い合わせ、ここはかつて宇宙人のようなものが何かをしに来た場所なのではないかという、やくたいもない思いを強く持ったのだった(分かる人には分かるかもしれないが、岩明均の『七夕の国』のようなアレなのである)。
私が出雲を訪れたのは、残念ながら日曜日だったので、夕食を独りで済ませた後に代官町に繰り出したものの、九割以上の店の看板の灯は消えていた。日曜でさえなければという思いもあったが、いつもの経験からするなら、こういう時こそ数少ない選択肢の中に良い出会いがあるものなのである。
この日は、最初に三十年ほど営業している老舗スナックに入り、しばしカウンターの中の女性たちと歓談した。出雲と尼崎出身とのこと。しばらくして次の店へと思ったのだが、スナックの選択肢がほとんど無いので、日曜に開いている店でオススメのトコということで、更に奥まったところのあるフィリピンスナックへと行き着いたのだった。
私はフィリピン系の店に入ると英語と片言のタガログ語以外は一切しゃべらず、歌も英語でしか歌わないが、この日もいつも通り気持ち良く英語で歌っていたら、もう一人だけ居たお客が、ノリノリになって私の歌に合わせて踊り狂い始めた。話してみると、彼はフィリピンスナック/パブめぐりの大ベテランだった。すっかり意気投合した我々は「マブハイ!(タガログ語で“乾杯”の意)」と杯を乾し、折角なのでと、もう別のスナックへと再び夜の巷に繰り出したのだった。
次の店で彼とゆっくり話すと、フィリピンスナックでは少し言いにくそうにしていた仕事を教えてくれた。ある宗教の大幹部とのことだった(後日、彼の名前で検索するとココには書けない色々なことが本人の顔写真つきで出て来た)。彼がバリバリの一流企業の会社員から突如として入信するまでの話は実に面白かったが、ここではその詳細は省こう。日曜の夜のたまさかの出会いによる酒場での話なのだから。我々は深夜二時近くまで親しく楽しく飲み明かし、それぞれの宿泊先のホテルへと帰投した。
この夜、私は宇宙人に誘拐された。酒は飲んでいたが、そう酔ったという感じもなく部屋に帰り、寝間着にきちんと着替えて床についたのだが、数時間後、わたしは胎児のようにまるまった姿勢で部屋の外の廊下で寝ていたのだった。宇宙人である。「これがアブダクションというやつか・・・」、私は戦慄した。目覚めた私は見慣れぬ意外な天井に心底慌てふためき、フロントへ裸足のまま行って、間違って部屋を閉め出されたむね告げ、何とかことなきを得た。一瞬、「大学教授、深夜のホテルを全裸で徘徊」という記事の見出しさえ脳内をかけめぐったが、服だけは残しておいてくれたようで、比較的親切なアブダクションだったようである。しかし、古代に大社を作らせたなにものかであることには間違い無い。宇宙である。
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翌朝、宇宙への余韻を残しつつも、講演のためJRで松江へと向かった。先に記した通り、私はとある縁で松江訪問を長らく切望していたのだが、それは一九七〇年の一二月に私の父が松江に一ヶ月住んでいたことがあるからだ。父は歯科医なのだが、当時は、山陰地方はおろか大阪にも歯学部(歯科大)が無かったので、山陰には九州大学の歯学部から歯科医を送り込んでいたらしく、それで松江に派遣され、一ヶ月のあいだ逗留したのだった。その時の話を私は子どもの頃から聞いており、いつか私も松江の地を踏んでみたいものだと思い続けていたのである。
父の勤務先は松江市立病院。当時は市街地の灘町あたりにあった病院に勤務し、下宿はすぐ近くの寺町だったとのことである。ちなみに松江市立病院は現在では移転し、郊外にある。
この父の短期赴任は、月給二〇~三〇万円と当時としてはかなりの高給だったので、毎晩、夜の街を飲み歩いたらしい。一九七〇年当時の大卒初任給が四万円くらいなので、当時の二〇~三〇万といえば、いまの価値だと少なくとも一〇〇~一五〇万円くらいか。大金である。
父はスナックも飲み歩いたが、料亭などにも行っており、滞在中に先方の病院のエラいひとに一席設けられて料亭に招かれたら、料亭の女将が「あら、谷口先生」となり、先方は「何で知ってるんだ」ということになったという笑い話もあったらしい。放蕩の限りを尽くしていたわけである。
そんなこんなで父は一ヶ月、松江に居たわけだが、最後に離任する時には、松江の皆さんからココで開業してくれと誘われ、松江駅までスナックのママたちなどが何人も別れを惜しんで見送りに来たくれたとのことだった。そのお店のひとたちとは、その後も年賀状のやり取りがあったらしい。父のあとにも、九大から送り込まれた歯科医は何人も居て、そのまま松江で開業したひともいるとのことだが、父ほど夜の街で景気良く呑んだひとは、その後はそうは居なかったので、あとに続いたひとは皆、「なんでもっと谷口先生のように呑まないのか」と言われ困り果てた、という話だった。
ちなみに一〇年前、とても懐かしくなり、母と二人で四〇数年ぶりに松江に行ってみたとのことだった。父は実家が九州で開業していたので帰らなければならなかったけれど、もし松江で開業していたらと思うと不思議な気持ちになる。私も松江出身だったかもしれない(いや、それ以前にこの世に居ないか)。このような縁のある松江だったので、ずっと来てみたいと思っていたし、そこに来てスナックの話をするということについて深甚な縁を感じたのである。
講演はいつも通りスムーズに終わったのだが、終了後、聴衆のお一人から「夜の松江の街をご一緒しないか」とお声がけ頂いた。あとで知るが地元でも有名な会社の経営者で、立志伝中の人物であると共に、松江の夜の街の「帝王」でもあった。
地の料理を出す居酒屋を皮切りに、長い付き合いのあるスナック、料亭の倉を改造した素晴らしいカフェバー、老舗の寿司屋などにお連れ頂いた。実に遊び慣れた方で、感服すること、しきりであった。最後は、宍道湖にかかる大橋から美しい松江の夜景を堪能し、タクシーに乗った彼を見送った。
しかる後、いつもの単独行となり、松江の夜の街を改めて彷徨ったのだった。松江の繁華街は、大きく二つあり、一つは駅からすぐの伊勢宮町。これは伊勢神宮の伊勢から取られた名とのこと。もう一つは、官庁街・城郭界隈の東本町。昼間は「ひがしほんまち」と読まれるが、夜には「とうほんちょう」と名前を変えると聞いた。神楽坂の昼夜の通行規制のようで、すこぶる面白い。二軒ほどラウンジとスナックをまわり、それぞれに実に楽しく呑んで、深夜、ホテルに帰投し寝たが、今回は数十年前の父の善行のお蔭様か、朝までベッドでぐっすり寝たのだった。
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なお後日譚ではあるが、東京に戻って、松江の話と共に出雲での出来事を同僚の河野有理先生(スナ研メンバー)に話したら、「モルダー、あなたは疲れているのよ」と言われた。出雲・松江、また訪れたい地である。
※ 蛇足ではあるが、以下、備忘を兼ねて。--松江に関しては、芥川龍之介が、親友で後に法哲学者となる恒藤恭の故郷である松江を訪れた際の文章が残されている。「松江印象記」という短い文章で以下の青空文庫からも読めるものだが、有名な「松江はほとんど、海を除いて「あらゆる水」を持っている。」という際だって素晴らしい下り以外は、かなりの厨二病的文章であり、あんな大作家でも若い頃はこんな厨二病テイストあふれる文章を書いていたのか、とほっとするので、暇があったらご覧じられたい。