スナック紀行--群馬県太田編
「おくのふと道」と題して、青森のスナック街について記して来たが、東北以外のものについては今後「スナック紀行」の括りの下、これまで訪れた街について記し留めておくことにする。今回は、群馬県太田市。
太田市は、以前書いた「郊外の多文化主義」の冒頭で触れた外国人居住比率日本一の邑楽郡大泉町の隣にあり、私は大泉への調査に行く際、何度か太田を訪れているのだった。
人口22万の太田市は、富士重工業(スバル)の企業城下町であり、北関東有数の工業都市である。
地理的には「東毛」に属すが、「上毛かるた」などにも見られる、この「毛」の文字は、下野(しもつ《け》)という旧国名にある《け》であり、これは古代関東における「毛野(けの)」という勢力に由来しているらしい。
これまで「おくのふと道」で記した、むつ(大湊)や三沢と同様、太田もまた軍都であるのは偶然なのだが、ここには戦前、巨大な軍需工廠であった中島飛行機が存在した。現在のスバルは、戦後、軍需産業に進出出来ないように解体された同社の末裔である。
先述の通り、私は隣町への調査の宿所としてこの街を訪れたのだが、実は太田自体にも以前から興味を持っていたのだった。三浦展の『下流同盟』の中で駅前商店街が全て風俗業となった一種異様な光景が活写されていたからである。
東武特急・りょうもうで太田を訪れた私は、先ず、駅前右手に巨艦のごとく鎮座するドンキホーテを目にし、視線を正面に戻して少し歩いた先の光景に唖然とした。
キャバクラ、熟女パブ、フィリピンパブその他、夜の商売のみが広い道の両側を占めているのである。これまで色々な歓楽街を歩きまわったが、駅のド真ん前の目抜き通りが、このような状態になっている街を私は他で目にしたことはない。
日中ひとけのない、この駅前歓楽街は、高さのそろった低層建築のテナントに開店前の呑み屋がギッシリ詰まったまま沈黙し切り、その姿は、ひとっこひとりいない西部劇の街のようでさえある。「ハードボイルド」という言葉こそが似つかわしい。
かつてに比べると、随分と客足も落ち、夜の街の活気も失われたと聞くが、路地裏も含めた店の数は膨大であり、スナックも多数存在している。
ひとつ気になったのは、なぜか熟女パブが多いのだが、理由は不明である。
なお、太田については勝谷誠彦の『色街を呑む!』で1章を割いて扱われている。この本は本当に名著で私は大好きなのだが、ちょっとココには記せないような過激なことが記されている箇所も多いので、内容については割愛する。機会があれば是非、手に取って読まれたい。
日中、隣町の大泉町で調査をしていた私は、夕方、タクシーで太田へと戻って来た。タクシーの車内では「本社のひとですか?」とためらいなく聞かれたが、なるほど確かに、ここは観光などで来る場所ではないだろう。
いつも通り、陽のあるうちにスナック街を歩き回った私は夜のとばりが降りると共に、これまたいつも通りに、一人で夜の街へと繰り出したのだった。
ちょうど呑みに出た日が平日だったこともあり、とにかく人出が少なく、正味の話、当日の、この駅前歓楽街の客引き・キャッチは総出で私をターゲットにして声を掛けて来た・・・どころの話ではなく、わたしは道ばたでほとんど彼らに囲まれ、競りをするように各自の店の特色を宣伝され、値引き合戦をされ、そうして幾つかの店に入ったのだった。
値段はどこもおおむね安く、調査目的である日系ブラジル人の話だけでなく、ペルー人の話なども聞くことが出来、大変有益だった。客引きのひとりが大泉町から来ている日系ブラジル人の青年で、酒を酌み交わしながら、彼から話を聞けたのも大きな収穫だった。何度目かに訪れた時、この店も無くなってしまっていたのではあるが。
この手の調べ物をしている時、呑み屋での会話で案外重要な事柄なヒントを得ることも少なからずあるが、録音するわけにもゆかず、相手の目の前でメモを取るなど言語道断なので、わたしは毎度、酔っ払いながら必死でトイレの便座に座り、メモを残すのだった。後で見返した際、ときどき何を書いてあるのか分からず、「ちっ、このクソ酔っ払いめ(←自分)」とも思うのだった。
ところで誤解がないように大急ぎで言っておくが、いつも飲み代は全て自腹である。このようなことに公費を使うことなど宇宙がひっくり返ってもあり得ない。事務に領収書を持って行ったら殺されるだろう。
閑話休題--先に述べた通り、観光目的で来るようなところでは金輪際なく、郷里であるかスバルなどの関係者などでない限り訪れることのない街なのではあるが、何度か訪れた私は、この街に奇妙な親近感を抱いており、テレビなどで群馬や太田と聞くだけで、妙に嬉しい心持ちになるのだった。
最後に太田のベスト・ショット。
本当に恐ろしいほど味わいのある佇まいである。ボア・ノイチ太田。
以上。